自分の中の常識は、相手にとって非常識である可能性があります。
人が育ってきた環境は、人それぞれ違います。
「当たり前」がみんな異なっていて不思議ではありません。
考え方が違うから関係をシャットアウトするのではなく、自分と違う考えの人を受け入れる努力をしてみると良いでしょう。
そこから新し学びがあるかもしれません。
新しい出会いがあるかもしれません。
自分の常識を正として生きていると、機会損失が生まれてしまいます。
視野を狭めているだけです。
そもそも、常識・普通なんてものはありません。
常識とは、その人が育ってきた環境で作られているバイアスに過ぎません。
ドイツで育ってきた人と、日本で育ってきた人では、常識が異なって当然です。
常識とはあくまで人の「考え方」に過ぎません。
「普通は・・・」と言っても、その普通はあなたにとって普通なだけで合って、他の人から見たら普通とは限りません。
違う考え方の人をダメだと決めつけているようでは、一生成長できません。
そんな考え方もあるんだ!
勉強になった!
くらいの気持ちが重要です。
みんなが普通と思っていることに正解はないと個人的には思っています。
みんながやることをやって、それが正解なのであれば、世の中みんな裕福でお金に困らない暮らしをしているでしょう。
ところがどうでしょうか。
明らかにそうなっていません。
巷のYESはプロのNOです。
みんなが左を向けば、少なくとも正解は左にはないということです。
また、厄介なことに年齢が上がれば上がるほど、変な固定概念がその人の常識として刻まれます。
常識とは違う意見がくると、それを素直に受け入れることができません。
年齢が上の人に特に顕著にみられる事象です。
自分の中で何らかの常識によって物事を判断しているな、と思ったら注意が必要です。
世の中、色々な考え方があっていいのです。
自分の常識は他人の非常識です。
柔軟な発想と広い視野で、自分自身を成長させていくことで、関われる人の幅もレベルも広がるでしょう。
書籍
【中古】 成功する人は心配性 /菅原道仁(著者) 【中古】afb
|
「私は正しい」は視野が狭まっている証拠
私は正しいと感じるときは、人は、私が正しいと思える情報だけに注目します。
そのせいで、相手が正しい可能性を見ようとしなくなっているのです。
人は誰でも、自分を否定されると不安になり、防衛本能からつい「正しいのは私。間違っているのは相手」と本能的に考えてしまいます。
ですが、強すぎる不安に身を任せることで、生き延びるための道が見えなくなってしまうことは少なくありません。
|
とくに日本人は、マスメディアに植え付けられた「普通」とういう概念にとらわれすぎています。
多くの人は、普通こそが天地神明の理だと思っていて、全てのことを「普通」で片づけます。
しかし、実際には、普通が一番だと思っているのが、一番の間違いなのです。
普通は多くの場合、最適解ではなく、変化の多い時には足かせになるのです。
|
平均的で常識的な方法で生きていくと、平均的で常識的な結果が待っているわけで、その結果、「みんな仲良く落ちていく」というのが決定的なのが現状です。